「川下りは楽し・余談」   by  別宮 博一

41  <「皆既日食の思い出」>

〜 1963年7月21日、

   若き日に網走で見た日本で観測出来た20世紀最後の皆既日食〜
  
      (写真@)


 46年前の1963(昭和38)年は、私が大学3年生の時であ

る。この年はどんな年であったかというと、J.F.ケネディー 米

国大統領が11月22日にダラスで暗殺されている。しかも、日米

間TV宇宙中継実験に成功し、このニュースの第一報がこれによっ

て入って来たのだそうだ。私はこのニュースを柳川の辺りで電車の

中で知り、衝撃を受けた覚えがある。柳川に電光ニュース施設があ

った様な気もするが、号外の大きな文字を電車の中から読み取った

のかも知れないし、ラヂオであったのかも知れない。日本では、黒

四ダムが完成し、力道山が死亡し、吉展ちゃん誘拐事件が発生し、

新千円札が発行されている。巷では“巨人・大鵬・目玉焼き”、谷啓

の“ガチョーン”、植木等の“お呼びでない”などが流行ったとあり、

何れも懐かしい。銭湯が23円で、映画館の入場料が350円だっ

たと言う。岡山では「新京橋」と「備前大橋」が完成している。

 こんな年の夏、私は「日本で見える20世紀最後の皆既日食」の

事など全く知らず、又興味も無く、3週間にわたる北海道貧乏一人

旅を計画していた。

 大阪発寝台特急「日本海」で青森に至り、「青函連絡船」で函館に

渡る。函館は土曜日で、花火大会の日であった。当時から函館の夜

景は「百万弗の夜景」として有名で、これを「函館山」の上から花

火付きで堪能出来た。宿泊は国鉄函館駅待合室のベンチを当てにし

ていたが、最終便の発着後閉鎖され、追い出されてしまった。これ

は予想外の事で、それまでは何度もやって来ていたのである。仕方

無く街に出て歩いていたら、土曜日なのでオールナイトの映画館が

あった。これに入り、一亘り見た後は寝ころんで寝たのである。朝

7時前に目が覚めてみると、映画は写っているが、見ている人は誰

もおらず、パラパラといる客は皆寝ころんで眠っていたし、入り口

には誰も居なかった。何だか心に寒い思いがした。

 札幌では、従弟のペンパルの家へ寄ったら、彼は「蒸発」してい

なくなっていた。層雲峡ではユースホステルの主に唆されて、一人

旅をしていた立命館大学の学生と一緒に大雪山に登った。これが私

の人生での初山登りである。つい最近、ここら辺りで遭難事故が起

こっている様である。雄阿寒岳にも一人で登り、頂上で風と雲に翻

弄され、物凄く寒く、あわや遭難の目にも遭った。知床半島先端、

ノサップ岬、襟裳岬などにも行き、十和田湖、松島、東京にも寄っ

た。東京からは鈍行や快速を乗り継いで岡山に着いた時には100

円しか残っていなかった。この間、帯広近隣の「止若(ヤムワッカ)」

では岡山出身のお医者さんが居ると聞いていたので、午前7時にそ

のお宅を「岡山から後輩が参りました」と突然訪ねたにも拘わらず

歓待を受け、そのまま2泊してしまった。偶々夏休みで帰郷してい

た娘さん2人と澄んだ美しい「然別(シカリベツ)湖」へドライブ

したりで、実に楽しかった。

 こんな旅の途中、皆既日食の事を全く知らないまま、国鉄網走駅

で下車した。北海道は全般に閑散とした雰囲気であったが、ヤケに

人が多かったが、駅の外に出て驚いた。物凄い人出でごった返して

おり、正面に「歓迎 皆既日食観測」の大きなポールが立っている。

これを見て、偶然ながら皆既日食に遭遇する事になったのを、初め

て知ったのである。

 宿のユースホステルは「天都山」の登山口直近にあり、それとは

知らずながら、早くから予約していた。私が網走に立ち寄った目的

は、当時「網走番外地」が流行っていたせいもあり、「網走刑務所」

の塀の外に立って見ると言う、至ってクダラナイものであった。

 ユースホステルもスシ詰め状態で、東京からこの日の為に写真装

備を一杯持った私よりも少し年上の男の人が遅く到着し同室となっ

た。彼は機器の点検に余念が無く、私は唯見ているばかりであった。

当時私は「ハーフサイズ・カメラ」と言う35ミリフィルムを半分

使うというセコい「オリンパス・ペン」の小さなカメラにカラース

ライド・フィルムを入れて使っていたので、目の前で展開する別次

元の世界に唯々驚いていた。日食は日の出後間もなく始まるので、

彼の準備万端整い次第就眠した。

 ザクザクという足音で目が覚めた。未だ暗いが、物凄い数の足音

が攻め寄せてくる感じである。もう30分程で夜が明ける。彼は大

イビキをかいて眠り込んでいる。放って置いては目を覚ましそうに

ないので、強い刺激を与えて目を覚まさせてやった。大急ぎで機材

を持って「天都山」頂へ、人を掻き分けながら駆け上がった。

 何とも不思議な感じであった。急に微風が吹き一旦明けた空が又

暗くなり、寒くなった。ダイヤモンドリングも見えた。歓声が上が

る。何も見えぬ程の真っ暗ではなかったと記憶している。35秒の

皆既日食はアッという間に終わり又明るくなった。

 相部屋の若者は佐渡(サワタリ)氏といったが、私に起こされた

事を大変喜んで、皆既日食の経過を一枚に撮った写真を後日送って

くれた。貴重な写真との認識で私は大切に保管し、その後何度も出

して見た事がある。この度探して見たが何処にしまい込んだか思い

出せず、従って出てこない。大事な物がこんな事情でしまわれたま

ま行方不明になって行く。老化の典型的な姿なのであろう。岡山県

立図書館に行って当事の新聞を閲覧したら、讀賣新聞に網走で撮影

された同様の写真が出ていた。これをコピーさせて貰ったのが写真

@である。佐渡氏は今度の皆既日食を何処かで見ただろうか。

 このあと斜里だったかウトロだったか不確かであるが、ユースホ

ステルに寄った時、知床半島の主峰「羅臼(ラウス)岳」山頂で皆

既日食を見たと言う岡山大学の学生に出会った。会ってみると一級

下であったが顔は知っていた。その後彼とは親しくしているが、こ

の人物は、現「岡山医療センター」院長の青山興司氏である。46

年前の皆既日食を見た人が今岡山に何人いるだろうか。今回の皆既

日食では、旨く見えた場所は国内ではかなり少ない様である。皆既

日食は地球の何処かで3年に2回位起こっているのだそうであるか

ら、海外に出掛けるのであればチャンスは沢山ある訳ではあるが、

国内でという事になれば、私の体験の貴重さの度合いが増すと言う

物だ!

 
    (写真A)

 ところで、後楽園正門向かい側にある「岡山県立博物館」で行わ

れている「昭和のくらし〜50年前のおかやま」展に行って見たが、

昭和30年代の世界に浸り込め、実に懐かしかった。「ガラクタの山」

と言ってしまえば、それ迄であるが、その時代に生活した者には思

わず頷いてしまう様なものばかりである。昭和30年代の記憶のあ

る方々、御家族には特に御勧めの展示で、岡山市民ならシルバー・

カード提示で入場無料である。

 目玉イベントは「大村 昆」のコマーシャルが懐かしい「ミゼット」

など当時の車3台が屋外展示される。但し、これは8月1日限定1

5時迄で、雨天中止の由。屋内には三菱「ミニカ」1台が常時展示

されている。

 前回の皆既日食はこんな時代の日本の中での天体ショーであった

ことを思うと、46年間の世の激変振りを改めて感じてしまう。

 是非一度御覧頂く事を御勧め致します。



           

                          (7月26日) 




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