「川下りは楽し・余談」   by  別宮 博一

33  <高梁川の高瀬舟を辿る>

 最近は、地域の史跡を訪ねるタイプの生涯学習イベントが、色々な

自治体で多種多様に企画されている。私も昨年頃からこの種の情報に

目を向ける様になったが、備中高梁で育った私の興味はどうしても「高

梁」・「高梁川」・「備中松山藩」・「山田方谷」あるいは「成羽」・「吹屋」等に

向いてしまう。

 主催者は「サンデー毎日」の引退老人を対象にしている積りでもあり、

また自治体職員が運営に携わっているので、休日出勤を避けているため

と思われるが、平日の日中に行われる物が多く、引退し切っていない身に

は中々参加し難いのが残念ではある。時に週末に行われる物があり、こ

れに時々申し込んで参加している。

 
昨年秋には、高梁・玉島が連携して企画された、高梁川・船穂から備

中松山藩の港・玉島港へ高瀬舟を通す運河=「高瀬通し」約10キロを辿

る 《備中「高梁〜玉島」一体観光 高瀬通しをたどるツアー》 という、

高梁発のバスツアーに参加した。この「高瀬通し」は、小規模とはいえパ

ナマ運河と全く同じ方式の「閘門式運河」である。この方式はヨーロッパ

では15世紀から、中国では14世紀の元朝から使われている。日本では

1731 年開通した関東の「見沼通船掘」が最初のものとされているよ

うであるが、これより94年前でパナマ運河よりも240年も前に、約30

年の歳月を掛けて1637年、日本で最初に備中松山藩が此処に完成さ

せたというもので、藩主・水谷勝隆・勝宗父子の画期的事業である。

 
     (高瀬通し1)

 
     (一の口水門)

 
     (高瀬通し2)

 
     (二の水門1)

 
     (二の水門2)

 
     (高瀬通し3)

 
     (高瀬通し4)

現在は運河としての機能は果たしていないが、遺構は目の当りにする

ことが出来るし、今も水路として残っており、水が流れている。自治体や

住民による保存活動も行われている。部分的には覆われて暗渠になって

いる部分もあるが、全経路を1日掛けて概ね歩いて辿った。玉島が郷里

の妻も参加したが、全く初めての見聞であった様である。ガイド役の吉備

国際大学文化財学部の臼井洋輔教授によるざっくばらんながら詳細な解

説も素晴らしく、昼食も美味しい料理屋で提供され、有意義な一日を満

喫した。

今年10月下旬には 《「高梁〜新見」 現在も残る高瀬舟関係遺構を

たどるツアー》 という高梁発のバスツアーに参加した。今回は現在の高

梁川に沿って走り、あちこちで下車してガイド役の高梁市落合公民館長・

松前俊洋氏の説明を受けた。カヌーでこの辺りの川下りを何度かしたが、

全くそれと知らず気付かず通り過ぎてしまっていたものばかりで、良い学

習になった。

新見庄と松山藩の境界の高梁川に番所があって、舟から通行税を徴

収していたなどは思いも寄らぬことである。付近にあった役人の屋敷跡

辺りも見て回った。高瀬舟の転覆事故での大勢の犠牲者の名前の刻まれ

た供養塔なども、知っていないと先ず分らない場所にある。

昭和9年の室戸台風時の増水した高梁川水位の記録が、JR伯備線と

国道180号線の間にある巨大な岩に残っているが、それと意識される事

も無く放置されている。これも誠に気付き難い物である。

今後、高梁川の此の辺りをツーリングする機会があれば、水路からこれ

らを巡るのも一興かも知れない。
 
     (番所付近の舟溜まり跡)

 
     (溺死者供養塔)

 
     (満水浸線)

 
     (新見船着場付近)

                          (2008/11/18)




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