「川下りは楽し・余談」   by  別宮 博一

S+F<Route 66 は楽し>

     

    (@写真 Chicago 起点付近にて)


 今年のゴールデン・ウイークには、最大限の休みを取り、今は

捨てられ現行道路地図上には存在しない、アメリカの嘗ての花

形ハイウェー “Historic Route 66“ を、起点の Chicago から

終点の Los Angeles の Santa Monica まで、行き当たりバッ

タリに motel に泊まりながらレンタカーで辿ると云う、期待と

不安が一杯でドキドキの自動車旅行を敢行した。誠に楽しく思

い出深い旅ではあったが、夜明けから日暮れ迄走り回り、道を間

違えたり引き返したり、アチコチ寄り道しながら、1日13−14時

間・600km 走り、総走行距離は5000km 余に及び、クタク

タに疲れ果ててしまった。

   

   (A写真 Santa Monica にて)


 ところで、“Route 66” は、今や世界で一番有名な道路と思

われるが、”America’s First Main Street” とか “The Mother

Road” と呼ばれ、日本では一般にはナット・キング・コールの演

奏でよく知られているが、ジャンルに関係なく多くのミュージシャ

ンにより世界中で演奏され続けており、アメリカ人のみならず誰

もの心に響く何かがあるようである。また、昔同名の連続TVド

ラマが放送されたのをご存知の年配の方も多いはずだ。さらに、

ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」の舞台にもなっているので

ある。

 さて、如何してこんな旅をする事になったかと言うと、私が今

年の2月に66歳になったと云う拘りが総べてである。と云うの

が、66歳と云うのは還暦に始まる賀寿のリスト上には無いのを

知り、自ら祝わなくてはと発奮した訳である。奇しくも、New

York` 留学の帰途、妻と長女を連れて6週間2万キロに及ぶ主

として国立公園巡りの北米大陸大自動車旅行を、全部一人で

運転して敢行したのが1975年で、33年前の33歳の時である。

この時受けた広大な北アメリカ大陸の景観の素晴らしさの感動

が忘れられず、機会があれば又走ってみたいと云う思いはずっと

持ってはいた。

   

   (B大自動車旅行経路図:緑1975、赤2008)


 私は Rand McNally の北米道路地図を1975・1996・2008

年度版の3冊を持っているが、1985年に廃止された ”Route

66“ は、私が留学中に使っていた1973年版には、Chicago〜

St. Louis は現行 Route 55 に、St. Louis〜LA は現行

Route 40 に置き換わりつつも、現役ハイウェーとして、ちゃん

と記載されている。この Route 66 を走ってみたいと云う思い

は、昨年頃より沸々と湧き上がって来ていた。捨てられた道路と

共に捨てられたガソリン・スタンドやモーテルやカフェーや看板

等々の残骸を周りの景観を含めて愛で、感慨深く訪ねて回ると

いう、バカバカしいと言ってしまえばその通りで、「それを言っちゃ

あ、お終いだよ!」の旅なのである。

   

    (C1973年版地図 Route 66)


 当初、妻と二人での旅を想定し全て自分で運転する積りでい

たが、妻は「あの時は、あなたも若かったから出来たけぇど、33

年経って老化しとる事を忘れとるわぁ。そりゃあ、無理じゃあ」と

言い、緊張しっ放しの旅行は御免蒙ると嫌がり、ボーっとしてい

ても連れて行ってくれて、観光させてくれて、食べさせてくれて、

ホテルへ連れて行ってくれて、店にも連れていってくれて、ちゃん

と連れて帰ってくれる、添乗員付きのツアーが楽で好いとのたま

う。それはそうであるが、こういう旅行は予備知識をつける学習

をするでもなく、イキナリ出掛けてしまうことに成り勝ちで、帰っ

て来てから暫くすると、何処へ何しに如何通って行ったのか怪し

くなってしまうと云うのを、この頃感じる様になった。「自分の手

作りの旅でねぇと、おえん」と云う訳である。

 しかし、資料を漁り、情報が増えるに連れて、一寸無理かなと

云う気が私もし始めていた。付いて来てくれる事を何処かで期

待しつつ息子に声を掛けてみたら、「放って置けない」と思ったの

か、「僕も行って見てぇなあ」と言って同行してくれた。彼が休み

得る範囲内に期間を短縮したが、お陰で運転やナビゲーション

を交替で行う事が出来、目的を果たす事が出来た。

   

   (D写真:車と補修された古いガソリン・スタンド)


 Chicago O’Hare 国際空港で手間の掛る入国手続きを終え、

日本で予約しておいたHertzのレンタカーで車を入手した。

PONTIACという GM の2000ccセダンで、オプションでこれに

日本語を含む5ヶ国語に切り替わるナビを搭載したものにした。

現行道路地図上に無い Route 66 を辿るにはナビは無力であ

ることは分かっていたが、日が暮れてオリエンテーションを失って

から、知らない街のモーテルやレストランに辿り着くのには期待

通りの威力を発揮した。

 33年振りに左ハンドルの車に乗って、右側通行の中に乗り出

すと、色々勝手が違い戸惑う事が多い。先ず、方向を変えよう

とする度にワイパーが動き始める。レーン内での運転者の位置

が右寄りにあると云う右運転席からの視覚的習慣によると思う

が、車の位置がレーン内で右端に寄り過ぎてしまい勝ちになる。

そのため、右折すると歩道の縁石に乗り上げそうになる。交差

点を左折すると、そこに車がいないと対向車線に入ってしまった

り、入りそうになる。

   

   (E写真:motel)


 ところで、motel と云うのは車で旅する人のための健全な宿

泊施設で、ナニをするために車で行くという日本のモーテルと

は全く別物である。今回の旅ではワイヤレス・インターネット環

境の motel でダブルベッド2つの1室に3人で1泊し、簡単な朝

食付きで、3人分で税込180ドルの1ヶ所以外総て50〜80ドル

と安い。

   

   (Fガソリン・スタンド値段表示)


 気になるガソリンの値段は色々であるが、例えばレギュラー1

ガロン(3.785リットル)が3.59ドル位で、1リットル95円程の感じ

である。今の日本に比べると安いが、アメリカ人にとってはトン

デモナイ高騰である。何せ6年前の3倍程になっているのだ。35

年前のオイルショックで、私が留学中にアメリカの乗用車の中で

コンパクト・カーに人気が出始め、真偽の程は定かでではないが、

コロナのエンジンを搭載したカローラと聞かされた日本車が時

に目に付く様にはなっていた。しかし、一般には大きなアメ車が

当然の様に走っており、ガソリンもモットモット安かった様に思う。

今回の旅行中には大きなアメ車の姿は全く見当たらず、さすが

に軽自動車は目に付かなかったが、乗用車は日本車サイズであ

るのには驚かされた。また日本車が実に多い。

   

   (G写真:日本車)


 さて、Historic Route 66 の旅に就いて話そう。8つの州を

通り抜けるのであるが、Chicago から イリノイ州を南西に走っ

てミズリー州 ST. Louis に至り、カンサス州をかすり、オクラホ

マ州 Oklahoma City まで西南西に進み、その後は太平洋迄、

ひたすら西に向かって駆け抜けて行く。

   

    (H図:Route 66)


 道路わきや路面に時々出て来る表示が頼りで、これが中々出

て来ないと道を間違えているのではないかと不安になってしまう。

   

   

   (IJ写真:Historic Route 66を示す標識の例)


 西に向って進むに連れて周りの大景観が徐々に変わって行く

のが面白い。緑の溢れた何となく普通のイリノイ州からミズリー

州に入ると、波乗りをして行くような起伏の激しい道路が多くな

る。カンサス州は僅か16マイルかするだけである。オクラホマ

州では南風が強かった。生えている木は風で北になびいた形に

なっており、風力発電の風車が並んでいる。木が少なくなり草原

だ。テキサス州に入ると草はまばらとなり、地肌が出た360度

地平線の茶色の世界だ。ニュー・メキシコ州では上面が平らの台

地が見える様になり、低い植物の塊が荒野一面に散らばってお

り、毛をむしり取った跡の鳥肌のような景色だ。

    (K閉鎖されたR66)

    (LSt.Louis)

    (M波乗り道路)

    (N風力発電)

    (O360°地平線)

         (P落書きやったぜ!)

    (Q中間点のカフェ標示)

    (R鳥肌)



 アリゾナ州では Petrified Forest National Park (珪化木の

森国立公園)と隕石による巨大クレーターの Meteor Crater

National Parkの近くを通るので、これらにも寄った。更に、

Flagstaff からはオマケの旅として、何と180号線を経由して

Grand Canyon に赴き、コトのついでに Monument Valley に

まで足を延ばし、翌日 Flagstaff に舞い戻った。この辺りは33

年前に通った部分と重なり、再度家族と共に自ら運転出来て感

無量であった。ネバダ州の Las Vegas は近かったが、今回は趣

旨が異なるのと Route 66 を途切れさせないために、実はそれ

よりも時間の余裕が無くて寄らなかった。Santa Feへ 向かう途

中、ニュー・メキシコ州の Las Vegas を通ったのでそれで良しと

しよう。

    (S硅化木)

    (21.Mteor_Crater)

         (22.Grand_Canyon)

    (23.Monument_Vally)


 カリフォルニア州では Mojave 砂漠の中を走るが,概ね鉄道

が並走している。100両を超える長い長い貨車を4台の機関車

で牽引した Santa Fe 鉄道の列車を実に頻繁に見かける。スピ

ードは遅いが輸送量は莫大なものである。アメリカのトラックは

馬鹿でかくて速いが、1台での輸送量は限られており、鉄道とト

ラックは旨く住み分けている様に感じられた。コンテナー貨物は

2段重ねになっているのにはびっくりした。また白で "HYUNDAI"

と書かれた韓国「現代」の赤茶色のコンテナーが圧倒的に多いの

は目を見張るばかりであった。

   

   

   (24、25写真:Santa Fe 鉄道)


 Historic Route 66 沿いの集落や町では整備・保存・修復活

動が盛んのようで、これを売りに商売を続けている人や、かつて

の栄光の思い出の品々を陳列して感慨に浸っている老人等様々

だ。アリゾナ州の Kingman と言う町では、よき時代の車に乗っ

て Route 66を走ろうという "Fun Run" に遭遇し,ありとあらゆ

る車が陳列された 1km に及ぶかと思われる歩行者天国を大

いに楽しんだ。白人ばかりの社会の様で黒人の姿は見当たらず、

アジア人の姿も我々だけと思えた。

    (26.古のガソリンスタンド展示)

    (27.Musium)

    (28.ContinentalDevide)

    (29.66_Diner)

         (30.GiftShop)

    (31.店内)

         (32.給水塔)

    (33.FunRun垂幕)

    (34.FunRun Car1)

         (35.FunRun Car2)

    (36.FunRun Cars1)

    (37.FunRun Cars2)

         (38.Ludlow Cafe看板)

    (39.Ludlow Cafe老姉妹)

    (40.Ludlow Cafe全景)

         (41.BagdadCafe全景)

    (42.BagdadCafe看板)

    (43.BagdadCafe内部)

    (44.民家の私設Musiumにて)


 旅行中、一度だけ田舎道の信号の無い交差点で接触事故を

起こしそうになった。間一髪セーフであったが、相手のおばさん

が随分怒り狂っていたが、我々が日本から来た旅行者で、

Chicago から Los Angeles へ Route 66 を辿っている途中

である事を説明したところ、急に機嫌を直し、「気を付けて行き

なさい」と優しく言い捨てて行ってしまった。住民には Route

66 に対して特別な思い入れがあるものの様だ。

 Los Angeles に近い San Bernardino 辺りから、それまで

の田舎の大雑把な穏やかな交通の様相がガラリと変わってしま

う。苛立たしい都市モード対応に、こちらもリセットしないといけ

ない。San Bernardino に泊まったのでゴールの Santa Monica

には午前中早く着いた。終点とされている場所にはそれを示す

特別な標識は掲げられておらず、締まらない感じの終末である。

大きなチャレンジを無事達成した喜びはあったが、もうクタクタ

で何をする気力も無く、motel で眠りたいばかりであった。

   

   (45)写真:ゴールの交差点)

 今回の旅を決断するにあたり、一番心配であったのは“竜巻”

である。アメリカ中西部に竜巻はつき物で、出会ったら如何しよ

うもない。案の定、私の旅の直前・直後にオクラホマその他で、

規模は大きくはないが竜巻の被害が報道されている。

 余談になるが、今回の旅程中、 オクラホマ州 Vinita と テ

キサス州 Amarillo で Historic Route 66 が 現行 Route

60 と交叉するのを見付けていた。丁度妻が満60歳なので千

載一遇のチャンスと捉え、この2か所は通過せず滞在した。寄り

添った感じの道路標識が実に良い。が、向かう方向はそれぞれ

の様である。

   

   (46)写真:66・60標識、Vinitaにて)

 日本に帰ってから暫くは寝込んでいた。体調が戻って車で出

掛けると、方向を変えようとするとワイパーが動いてしまうこと

が暫く続いた。





                              (2008/05/20)




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